新宿歴史博物館に屛風絵巻き展示 2021年9月9日 四谷翔覽屛風絵巻 2021年9月25日〜12月5日新宿歴史博物館(https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/)にて、江戸後期の四谷から新宿、中野坂上の手前までの町を善養寺が描き再現した、屛風絵巻3作が展示されます。四谷駅前の塩町(本塩町)の発掘結果や、新宿歴史博物館、新宿区、東京都が持つ、様々な史料を本に描かれました。展示サイズはそれぞれ、429cmx150cm。データサイズは880cmx320cmと大きな作品です。 四谷翔覽屛風絵巻だけでも、建物は約400件、描かれた人は702人。人々がいて町はできあがっていますので、活き活きした町にするために、ひとりひとりの人生を想像しながら描いています。そして、町の中に13の妖怪と幽霊が! 成子淀橋十二社翔覽屛風絵巻 内藤新宿翔覽屛風絵巻 四谷御門。現在のJR四ッ谷駅 四谷見附橋。現在のJR線のホームが走るお堀跡 塩町の町木戸番小屋。番小屋は雑貨や駄菓子も売るので、子供たちの集まる場所 手習所。一般に寺子屋と呼ばれる、読み書き算盤の学び方などを、浪人などが教える 中には妖怪も隠れています 湯屋(風呂屋)さんと床屋さんは、一町に1店あったとされます 塩町には寄席もありました 長屋の住人の名前や職業なども分かっているのが、四谷塩町の面白さ 四谷では群馬の足袋職人の息子が仇討ちをし、公式に認められた事件がありました 四谷と言えば四谷怪談ですね。怪談の元となった事件があったとされますが、お岩さんとは別人という説もあります 武家屋敷の裏戸とひと目を忍んで叩く男の子と、そっと顔を出す娘。堂々と逢えない当時の恋 武家屋敷の窓からは花を生ける少女も 大通りを行き交う馬を縫うように、貸し徳利を持って走る丁稚 スズメを叱るのは米屋の娘 四谷は竹問屋、材木問屋、炭薪問屋が多かった町です 新宿歴史博物館内に移築されている店・荒井屋さん
Emile 7 アニメーション 2020年4月30日 絵本 Emile 7 をアニメーション・クリップクリップ化しました。YouTubeで公開しておりますので、是非遊びに来て下さい。 picturebooks
新企画「ネコシェフの料理日記」 2019年12月3日 2019年12月3日より、Youtubeチャンネル「ネコシェフの料理日記」をプレ・オープンしました!クロネコのシェフが森の仲間たちの様々なオーダーに答えつつ、料理を紹介します。でも、単なる料理番組ではありません。絵本を読んだり、日常の疑問などを話したり、ちょっと変わったアニメーション・ブログを目指します!入谷のわきと善養寺の新しいチャレンジに乞うご期待! ネコシェフの料理日記
仙台NHK文化センター 2019年8月13日 昨年に引き続き、第2弾は「江戸の健康法」でお話をさせていただきます。『江戸の町とくらし図鑑 商店と養生編』を制作したさいに、実際に試してみて、これはお手軽だし、効果を感じられる!と実感したものを中心にお話させていただきますので、実際に使える江戸の知恵でございますよ〜。お申し込み・詳細はこちら>>>https://www.nhk-cul.co.jp
円山応挙 2019年8月5日 2019年8月3日〜29日 東京芸術大学美術館・11月2日〜12月15日「円山応挙から近代京都画壇へ」展の図録内におさめました、応挙一門、四条派の居宅地図です。当初は江戸初期から近代までをイメージして、タイムスリップ感のあるものに、と思いましたが、江戸初期から応挙の時代を中心になりました。材料には「洛中洛外屏風図会」の部分や「都名所図絵」などからリメイクし、応挙の家宅アトリエと四条通りは想像図としてオリジナルで描きました。図録制作は求龍堂特に、晩年の応挙の姿は、その為人を現すように好好爺に描いています。監修の先生には、残されている応挙の人物画と違うとも言われましたが、応挙の命への慈しみを表現したつもりでおります。 四条通りは、江戸時代中期以降に描かれものがないため、三条通りや明治の写真などを参考に想像で描きました。現代とことなるのは、四条通りは当時大きな通りではなかったことです。現代のような通りになったのは最近のことのようで、代々お住まいの方も「賑やかな通りではなかった」と仰っておりました。どうやら、四条橋まで繋がっていなかったようですね。先斗町の手前でに寺町通りのところに「祗園御旅所」というのがあったようです。そのため、描く人を減らしました。また、町屋も江戸前期のような揚げ縁を広げる作りでなく、現代にも多く残る虫格子の表が一般的になっていたようです。それでは淋し過ぎるので、揚げ縁を開いて店内を見せるようにしてあります。そして、賑やかさを足すために『蝶々踊図巻』などの人々を挿入しました。 高瀬川は「都名所図会」のリメイクです。当時の様子がとてもよくわかりますね。安永九(1780)年に刊行ですから、江戸中期には、護岸が木で、橋も簡易なものだったことがわかります。手前には洗濯をする女性もいます。