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円山応挙

2019年8月3日〜29日 東京芸術大学美術館・11月2日〜12月15日
「円山応挙から近代京都画壇へ」展の図録内におさめました、応挙一門、四条派の居宅地図です。
当初は江戸初期から近代までをイメージして、タイムスリップ感のあるものに、と思いましたが、江戸初期から応挙の時代を中心になりました。材料には「洛中洛外屏風図会」の部分や「都名所図絵」などからリメイクし、応挙の家宅アトリエと四条通りは想像図としてオリジナルで描きました。

図録制作は求龍堂

特に、晩年の応挙の姿は、その為人を現すように好好爺に描いています。監修の先生には、残されている応挙の人物画と違うとも言われましたが、応挙の命への慈しみを表現したつもりでおります。

四条通りは、江戸時代中期以降に描かれものがないため、三条通りや明治の写真などを参考に想像で描きました。
現代とことなるのは、四条通りは当時大きな通りではなかったことです。現代のような通りになったのは最近のことのようで、代々お住まいの方も「賑やかな通りではなかった」と仰っておりました。どうやら、四条橋まで繋がっていなかったようですね。先斗町の手前でに寺町通りのところに「祗園御旅所」というのがあったようです。そのため、描く人を減らしました。また、町屋も江戸前期のような揚げ縁を広げる作りでなく、現代にも多く残る虫格子の表が一般的になっていたようです。それでは淋し過ぎるので、揚げ縁を開いて店内を見せるようにしてあります。そして、賑やかさを足すために『蝶々踊図巻』などの人々を挿入しました。

高瀬川は「都名所図会」のリメイクです。当時の様子がとてもよくわかりますね。安永九(1780)年に刊行ですから、江戸中期には、護岸が木で、橋も簡易なものだったことがわかります。手前には洗濯をする女性もいます。

高瀬川